■ 日本には、ひしおの時代が長く続いていた
奈良〜平安のころ、日本には「ひしお文化」があった。
魚、豆や穀物、野菜などを塩で発酵させた、素材別の発酵ペースト。
豆は豆。 穀物は穀物。 魚は魚。
素材を混ぜずに、それぞれを発酵させていた。
この時代には、まだ味噌のような“複合発酵”は生まれていない。
造醤院という官営の工房では、こうしたひしおが作られていたらしい。
文献には「未醤」という名前も出てくる。
これが後の味噌につながるという説もあるけれど、はっきりした因果は見えない。
ただ、ひしお文化が長く続いたことで、 日本の風土に麹菌が根づき、
「発酵ペーストを食べる文化」がゆっくり育っていったように思う。
■ 宋から伝わった径山寺味噌は、“複合ひしお”やった
数百年後、宋の禅僧が中国から持ち帰ったのが 径山寺味噌。
奈良〜平安のひしおとは、少し性質の違う発想だった。
大豆、米、麦、野菜。 素材を混ぜて、一緒に発酵させる“複合ひしお”。
造醤院のひしお文化にはなかった考え方。
この「複合発酵」が日本に入ってきた瞬間が、
味噌誕生のターニングポイントになったように感じられる。

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■ 湯浅で、径山寺味噌は木桶と出会ったのかもしれない
中国では甕(かめ)で発酵させる文化が中心やけど、 日本は古くから木桶の文化が強い。
酒も、酢も、醤油も、味噌も、漬物も、木桶で育つ。
だから、径山寺味噌が日本に伝わったとき、
自然に木桶で仕込まれるようになったのかもしれない。
木桶は呼吸し、麹菌が住みつく。 湯浅の気候と水は麹菌がよく働く土地。
甕から木桶へ。 この器の違いが、味噌の姿を静かに変えていったように思う。
■ 湯浅の風土が、径山寺味噌を金山寺味噌へと育てた
温暖で湿度があり、麹菌がよく働く土地。柔らかい水。発酵がゆっくり進む環境がそろっていた。
この土地の条件が、 大豆・米・麦・野菜を一緒に発酵させる径山寺味噌を、
ゆっくりと“日本の味噌”へと変えていった。
気づけば、径山寺味噌は 金山寺味噌 と呼ばれるようになり、 ここから味噌文化が広がっていく。
■ 味噌の底から落ちた“たまり”が、醤油の道を開いた
金山寺味噌を木桶で仕込むと、 底からぽたり、ぽたりと黒い液体が落ちてくる。
これが たまり。
最初は副産物やったけど、舐めてみたら旨かった。 集めて火入れすると、
保存性が高まり たまり醤油 になる。
味噌のしずくが、醤油の最初の姿やった。
湯浅はこの“たまり文化”を育て、 やがて醤油の発祥の地と呼ばれるようになった。
固体の道は味噌へ。 液体の道は醤油へ。
ひしおから生まれた二つの道が、ここで静かに分かれていく。
■ 途切れずにつながっていくもの
これがほんまかどうかは分からない。
けれど、ひしお文化が麹菌を育て、 径山寺味噌が複合発酵の考えを持ち込み、
湯浅の木桶と風土がそれを味噌へと育てたという流れは、どこか自然に感じられる。
味噌の底から落ちたたまりが、醤油へと発展していったことも含めて、
日本の発酵文化は一本の川のように続いている。
歴史は、分からんところをそっと仮定していくところにロマンを感じる。
その余白の中に、発酵の物語が静かに息づいているように思えた。


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