「蔵に息づくもの」

食と体の関係

■ 湯浅で感じた、静かな香りの記憶

湯浅の蔵に入ったとき、空気が少し変わった気がした。

黒ずんだ木の壁に染みついた、醤油の深い香り。

長い時間が静かに積み重なっているような空気があって、 その場所だけ、

そっと守られているように感じた。

けれど、湯浅で吸い込んだあの香りが、 ずっと私の中に残っていた。

■ 現代の醤油づくりは、便利さと安定を求めて変わっていった

大量生産の醤油は、工業的に培養された麹菌を使い、 温度や湿度を管理し、

短い期間で均質な味をつくる。 原料も、油を搾ったあとの脱脂加工大豆が中心になった。

もちろん、それらは便利で、安定していて、料理にも使いやすい。

私も長いあいだ、しぼりたて生醤油やキッコーマンの丸大豆醤油を使ってきた。

十分うまいし、日常の料理には困らない。

ただ、湯浅で感じた“静かな深さ”は、 そうした醤油とは少し違うところにあるように思えた。

■ 発酵の深さは、菌の働き方に宿る

湯浅の蔵で吸い込んだあの香りには、 どこか“時間の重なり”のようなものがあった。

あとになって、あの違いの正体は何なのかと考えることがあった。

現代の醤油づくりでは、工業的に培養された麹菌を使い、

均質で安定した味をつくることができる。

けれど、蔵に自生する菌は、土地の風や湿度を吸い込みながら育ち、

その蔵だけの味を静かに形づくっていく。

ほかの菌が寄り付きにくい、静かな“菌の森”のようなものがそこにはあった。

麹菌がゆっくり息づいている、穏やかな空気が漂っていた。

この気づきが、私の醤油の選び方の軸になった。

■ 設備ではなく、“伝統の中身”が残っている

今の醤油蔵は、昔からのやり方を大切にしながら、

必要なところだけ現代の技術を取り入れている。

その中で、“発酵の思想”だけは静かに息づいている。

大事なのは、どんな設備を使うかではなく、 生きた麹菌をどう育てるかということ。

発酵にどれだけ時間をかけられるか。 そして、丸大豆の油分をどう受け止めるか。

大量生産の醤油は、脱脂加工大豆を使うことで油分がなく、 発酵が早く進むようにできている。 一方、丸大豆には油分があるぶん、発酵がゆっくり進む。

そのゆっくりさが、味の層を静かに積み重ねていく。

塩味だけではなく、 香りや旨味が重なっていく“深さ”が生まれるのは、

この時間の余白があるからだと思う。

■ 私が日常で使う、発酵の深さを残した三本

大徳醤油(兵庫・養父)

丸大豆の甘さが、ゆっくりと深く育つ醤油。 料理に少し垂らすだけで、味が一段深くなる。

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キッコーゴ(近藤醸造/東京都あきる野市)

東京の山間の静かな蔵で育った醤油。 丸大豆の厚みがありながら、角がなく、料理にすっと馴染む。 都会のすぐそばに、こんな発酵の深さが息づいていることに驚かされる。

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末廣醤油(兵庫・たつの市)

うすくち醤油発祥の地、たつの市。 関西のうすくち文化の静かな底力を感じる一本。そうめんとの組み合わせは最高!

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■ 日常の中に、静かな発酵の深さを残す

大量生産の醤油が悪いわけではない。 便利で、安定していて、誰でも使いやすい。

けれど、私は湯浅で感じた“静かな深さ”を、 日常の料理の中には残しておきたいと思う。

伝統は、設備ではなく、中身に宿るような気がする。

麹菌の働き方、発酵の揺らぎ、丸大豆の余白。

その静かな深さを、私はこれからも大切にしていきたい。

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